わたしがバイエルでまなんだこと。

 

目を覚ますとまずすること。

「アレクサおはよう、『バイエル』かけて。」

 

アレクサはいないので、

そう言いながらベッドの中から手動で『バイエル』を再生する。

ムクリとからだをおこす。

ブラインドの隙間から射し込む光を浴びながら、1曲目 “大疫病の年に” のパイプオルガンの音を聴くと、教会にいるような厳かな気分になる。

 

 

去年の今日、突然サブスク上に誕生したバイエルちゃん。

‎ドレスコーズの「バイエル」をApple Musicで

 

わたしはあの日からずっと、毎朝かかさず『バイエル』を聴いている。

礼拝のような、朝練のような、毎朝の習慣だけど、儀式のような、自分だけの特別な時間。

 

この一年で、わたしはなにをまなんだだろう。

自分にとって激動の一年ではあったけれど、世の中でもいろんなことがあった。

コロナ禍での、1年おくれの東京オリンピック

スモークをたく戦闘機を人々が見上げる東京の光景を見ていると、昔観た戦争映画のなかに自分ひとり迷い込んでしまったみたいで、こわかった。

いちばん好きなバンドが出演した緊急事態宣言中のフジロックは、なんだか戦争へ行く人を見送る気分になった。

年があけると、ロシアのウクライナ侵攻。本当の戦争が起こってしまった。

 

『バイエル』という、こんなにも今の時代に合ったアルバムタイトルは、ないと思う。

この時代に必要なのは、なにが正しいかが書かれている「バイブル」ではなく、自分で頭で考えるための「バイエル」だ。

 

 

わたしがバイエルでまなんだことは、

“ちがいをみとめる”

この一言につきると思う。

 

平和がいちばんだし、戦争には反対で、そんなことは当たり前で誰もがそう思っている。それでも戦争はおこってしまう。

暴力はだめだけど、妻を侮辱されて平手打ちをしてしまう。

わたしも自分の大切な人、モノが傷つけられたり、大切な人の思想を侮辱されたら、どんな行動に出るかわからない。

 

でも、どんなに好きな人も家族も、どんなに自分と似ていても、彼らは自分とはちがう人間で、その人たちに「なんでわかってくれないの?」と思ったり、その人たちの行動を変えようとするなんて、おこがましいことだと思う。

他人を変えようとする、そういう考えが戦争のはじまりだと思う。

「どっちも正しいと思ってるよ、それが戦争だよ」ってドラちゃんも言ってた。

自分の半径1m以上の領土外で起こっていることには、賛成も反対もしない。主張やデモもしない。

でも、なんでそんなことが起きているかをできるだけ理解したい。

わたしがすべきことは主張ではなく理解することだ。

だからまなびが必要なのだ。

 

東京に引っ越したことで、かかりつけの病院と薬も変わった。新しく飲みはじめた薬までバイエル製薬のものだった。

 

 

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わたしの部屋にやってきた日のバイエルちゃん。標本みたいにテープで留められてやってきた。