今年もまたひとつ歳をとった。
世界がどんな状況でも毎年誕生日は来るし、年は暮れてゆくのだ。
2020年は、うるう年だった。
季節と、太陽/月の運行のずれを補正する帳尻合わせの年なんだから、いっそのこと今年はなかったことにしたらいいのに。
今年の誕生日はなかったことにして、全人類来年も同じ歳をもう一年やり直せたらいいのに。
あさってもう一度、2020年のお正月が来たらいいのに。
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喫茶店でずっと時間をつぶしていたような、そんな一年だった。
待ち合わせの時間を、
たのしみにしているライブを、
あの舞台が開幕するのを、
誰かとの約束を、
ずっと待っていたようなそんな一年。
でもそれは、私にとってはさほど悪い年ではなかったように思う。
だって、好きな空間(喫茶店)にひとりでずっとこもっていられたのだから。
満員電車で通勤しなくてよくなった。
毎日会社に行かなくてよくなった。
朝礼がなくなった。
定例会議がなくなって、
会社の飲み会もなくなった。
オンラインでできることが増えた。
無理して人に会わなくてよくなった。
他人に何かを強いられるのが大キライな性分だけど、今年の世の中の大きな変化は意外にもすんなり受けいれることができた(受け入れざるをえなかったけど)。
全人類が初めて直面している問題に対して、自分なりの解き方を自由に模索して試していいという状況はキライじゃなかったし、もはや夢中にさえなった。
不自由なはずなのに、なぜか充実した一年だった。
たぶん、今までのことをふりかえり、これからのことずっと考えていたからだと思う。
そういう意味で私にとっては、《特別な一年》だったと思う。
でも昨今のメディアにおいての「特別」という言葉の使われ方は大キライだ。
たしか、小池百合子が《特別な夏》と言ったのが始めだと思う。
《特別な年末年始》とか《特別な一年》とかって言うけど、「特別」という言葉ってもっと特別なんじゃないでしょうか。国語苦手やし知らんけど。
だいたい百合子とかメディアが使う「特別」は、別に「特別」じゃなくて「特殊」でいいんじゃないでしょうか。なんでそんなに「特別」を使いたがるん?
逆に自分にとって「特別」なことを「特殊」って言われるのもめちゃくちゃ違和感ある。
英語なら “special” でしかない単語を「特別」とか「特殊」、他数種類もの言葉を使い分けるくらいニホンゴは繊細なのに、メディアがそれを崩壊させてどうするん? 国語苦手やし知らんけど。
閑話休題。
そんなふうに、そういうしょうもないことから、(自分にとっては)壮大な計画まで、膨大なことをずーーーっとひとりでお茶しながら考えていた。
考えていただけで一年が終わろうとしている。
絵に描いたモチだらけになってきたところでそろそろお正月だ(よかったやん)。
2020年が終わる。
そろそろ新しいことを始めたくなった。
そろそろ外に出たくなった。
ちがう喫茶店に移るのもいいかも。
会いたい人に会いたくなった。
今年考えていたことを、誰かに話したくなった。
待ち合わせの時間は、もうすぐ来るはずだ。
今年は一回も会いに行けなかったけど、
来年はきっと、会いに行くからね。
来年も4946ね。
2020年12月30日 235より