ドレスコーズ『バイエル』は、コロナ禍における孤高のプロテストアルバムだ。

 

東京では明日、4度目の緊急事態宣言が発出される。

なのに、東京オリンピックパラリンピックは開催されるらしい。

 

この夏のロッキンは、医師会の要請を受け、中止を決定。

なのに、オリパラは開催されるらしい。

 

緊急事態宣言の発出にともない、政府から飲食店での酒類の提供を中止の要請があった。

なのに、オリパラは中止されないらしい。

 

この長すぎる非常事態のピークのタイムラインに流れているのは、賛成か、反対か、政府への批判、主張。

 

 

そして、10年前の東日本大震災後と同じように、

 

「ぼくらは、いつも通りに生活するしかない。」

「自分は自分の仕事をするしかない。」

というような「~しかない。」というツイートがよく目についた。

 

ロッキン中止の発表にともない、ミュージシャンたちも

「残念だけど、前に進むしかない。」とか言っていて、

そりゃそうなんだけど、震災のときも今もなんかこのポジティブなようでネガティブなかんじの「~しかない。」には違和感がある。

 

しまは「~しかない。」を、こんなかんじで使ったことはない。

(「期待しかない。」とか、ポジティブなたまらんMAXなかんじではよく使うと思う。)

 

この「~しかない。」以上。みたいな言い切りでそこで思考が停止するのとか、

オリンピック開催に賛成か反対か、批判か共感かのその2択しかないのとか、0か100かみたいな考え方とか、

なんでそうなってしまうのか考えた。

 

たぶんこれは、日本の義務教育のせいじゃなかろうか。

 

国家のやることに疑問を持たないように、

みんな同じように、みんな平均値で、言うとおりにするように、お手本通りにするように育てる(というか矯正する)そんな教育。

極端に言ったら、『平凡』のノーマリストの世界みたいな。

 

 

自分で考える力は、日本の義務教育では育たない。

 

でもさすがにボロが出すぎてみんなが声をあげたり、

みんなが意思表示をするようになってきた。

 

 

 

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前置きが長くなったけど(←前置きやった!)、

ドレスコーズの『バイエル』がプロテストアルバムだと思うのは、

 

そのような教育がされてきて今にいたるこの世の中で、リスナー自らに考えさせるアルバムだからだ。

 

ドレスコーズの考えさせるシリーズの作品は、『バイエル』にはじまったことではない。

コンセプトアルバム『平凡』をはじめ、人類最後の音楽として発表された『ジャズ』も、一聴するといいメロディで、しかし深堀していくと様々な時代背景や情報が、何層ものレイヤになって地下に続く巨大帝国になっているようなおそろしさがある。

この2作品は、コアなフアンにとっては深堀りしていくことで新たなレイヤを発見するというたのしみを持たせつつ、しまが得意とするメロディの良さは担保することで、そうでないフアンも(例えば顔ファンとかも)おいてけぼりにしないいう点でも素晴らしいのだ。

 

 

 

そんな地下に潜む巨大帝国のような作品『平凡』『ジャズ』に対して、

『バイエル』は、世界が終わったあとの焼け野原にポツンと置かれた「スケッチブック」のようなアルバムだ。

 

大人にも子どもにも、「じぶんの好きなように描いていいよ。」と言ってくれるような、そんな作品だと思う。

 

 

今回はじめて公募でメンバーを募集した『バイエル』の全国ツアー “変奏” を観ても、このツアーでの「学びと成長」が受け身の「レッスン」での成果はなく、メンバーが各々の楽器で自らの表現で描いた「ワークショップ」だったのではないかと思う。

 

 

 

もしかすると、しまが依頼したキャリアの長いプロの演奏家たちが集まった今までのどのドレスコーズよりも、この平均年齢が最年少の公募メンバーによるドレスコーズのほうが、楽曲の表現に関するしまの指示は少なく、メンバー自らの表現が生かされていたのではないかとわたしは想像する。

 

誰にでもやさしく、誰も傷つけずに「じぶんで考える」ことを能動的にさせて、しかも「学びと成長」をテーマとしたこの作品は、じぶんで考える力を育てなかったこの国の教育、そして現代社会に対して、反逆的な作品だとわたしは思う。

だって考えないと成長しないと思うし。

 

これまでこの国で大きな出来事が起こるたびにじぶんの好きなロックンローラーの政治的な発言や、メッセージ性のある歌を歌うのを見てきた。

好きな人が歌う主張、賛成か反対かとか、平和を願ったり、政府への批判だったりと、じぶんの考えはいつもまあ、好きな人とだいたい同じなんだけど、わたしは好きな人が歌う主張に同調しかできなくて、それだけ。それで、わたしはどうすればいいかなんて、今まで誰も教えてくれなかったし、歌で世界が変わるところは、今のところみたことがない。

 

 

 

しまは、4年前のドレスマグの特集(「音楽と政治」)で話していた「音楽はこれから、どう社会と関わっていけばいいのか」という問いに対する、現段階でのしまの答えと姿勢を、『バイエル』で示したのではないかと思う。

 

 

 

『バイエル』は、しまがはじめて音楽で意思表示をし、メッセージ性をもたせた作品だと思った。

賛成か反対かではなく、批判でもなく、「学びと成長」というテーマをもった作品を発表し、ツアーでもそれを見せてくれた。

今まで、ミュージシャンたちが歌う主張に同調しかできなかったわたしが、音楽を聴いて、この社会について、この社会でわたしはどうあるべきか、そしてそのためにもっと学びたい、なんて考えたのははじめてだった。

こんなひどい世の中なのに、『バイエル』を聴くと、ちょっと希望が見えてしまった。

 

こういうかたちで、こういった意思を作品で示したミュージシャンはしまがはじめてだと思うし、

めっちゃロックンローラーやな、と思うし

めっちゃパンクスやん、とも思うし、

控えめに言ってめちゃくちゃカッコいいです。

 

以上のことから、ドレスコーズの『バイエル』は、孤高のプロテストアルバムだと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

コロナ禍が終わったあとに待っている、ニューノーマルの世界は、どんな世界なんだろう。

 

新しいぼくたちのベーシック

結局かわらない世界

 

『バイエル』“変奏” ツアーで “おわりに” を聴いたとき、

「PLAY TOUR」ツアーファイナルの終演後に会場で流れたときとの想いとはぜんぜんちがうものだった。

 

東日本大震災が発生した日の夜に、ツアーでその日だけ演奏された“人生Ⅱ”が、

そして4月、東日本大震災の後、すっかり違う街に変わってしまった東京・渋谷公会堂で演奏された“弦楽四重奏第9番ホ長調「東京」”が、

10年後、コロナ禍のこのツアーでどのような意味をもって“変奏”されたのか。

宿題を解くように考えている。

 

この世界でこれからわたしはなにから学ぼうかな。

そういった意味では『バイエル』は、わたしの手元に届いたばかりで、まだまだ未完成の作品だと思う。

 

 

 

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プリントして部屋に飾ってるくらいお気に入りの今作のアー写