このツアーがはじまる少しまえ、家で飼っていたシャム猫が逝った。
彼女がやってきたのは、わたしがまだ学生だった頃の七夕の日。
大学から帰ると、家に仔猫がいた。
猫アレルギーの娘(わたし)がいて、当時我が家では小鳥も飼っていたのに、突然猫を飼うことになったのは、母が昔実家で飼っていたシャム猫とそっくりな彼女に、その日出会ってしまったから。
はじめての猫との生活は、なかなか苦労が絶えなかった。
気の強い彼女は、案の定小鳥を狙い、それを止めるため、引っ掻き傷で血まみれになるわたし。毎晩発作で苦しんで、約1ヶ月のショック療法の末、猫アレルギーだけは克服した。
母は彼女にも、実家で飼っていたシャム猫と同じ名前をつけた。
彼女の名は、メリー・ルー。
8年前の今ぐらいの季節に、ラジオから彼女の名前が聴こえてきた。
その歌声は、しま。
いちばん好きなバンドの新作が、彼女と同じ名前だったのだ。
メジャーファーストシングルで、当時所属していたレコード会社・日本コロムビアの100周年記念、しま念願のコロちゃんパック仕様。
毛皮のマリーズにとって特別なシングル『メリー・ルー』は、わたしにとっても特別すぎる作品になった。
今年、年が明けた頃から彼女の体力はだんだん衰えていって、週に2回点滴を打ちに通院している状態だった。
チケットは全公演おさえていたものの、そんな体調の彼女をおいて本当に旅に出るかどうか悩んでいた。
しかし夏を待たずに、4月の終わり、彼女はひとりで旅立ってしまった。
七夕の日、大学から帰ると、家にいた彼女。
突然やってきた彼女との、別れもまた突然だった。
仕事から家に帰ってくると、メリー・ルーはベッドの上にいた。
もう、息はしていない。
彼女との生活は、はじめうちは困惑したけれど、彼女はわたしのしょーもない10年間、ずっとそばにいてくれて、たいせつな存在になっていた。
彼女が亡くなった次の日もずっと、お別れをする時間までふたりでいて、
最後に、ベッドで眠るメリー・ルーをスケッチブックに遺した。
ベットに残っていた彼女の毛を1本、いつもつけているお守りのペンダントにしまって、はじめて彼女と出かけた旅が、“PLAY TOUR” だった。
そして、彼女と観ていたステージで、“Mary Lou” が演奏されたのだ。
毛皮のマリーズのラストライブ以来、ドレスコーズでは、はじめて演奏される “Mary Lou” 。
このタイミングでこの曲を歌うなんて……。
しまが「メリー・ルー」と呼びかけるたびに、涙があふれた。
毎晩しまは(彼女の身体と同じくらいの)バラの花束をいとおしそうに抱えて、“Mary Lou” を歌う。
この曲が歌われているときだけは、しまの声も演技も、美しいメロディも、ベガーズクインテットの演奏もこの空間も…… 、この音楽のすべては、わたしとメリー・ルーだけのもの。
わたしの “PLAY TOUR” は、彼女への祈りを捧げるための旅、“PRAY TOUR” だった。
どのドレスコーズも例外なく、名古屋でのツアー・セミファイナルは、とびっきりロマンチックな夜になる。
名古屋の夜も、客席に目を向けることなく、無表情でステージにあらわれたベガーズ・クインテットのメンバーたち。
だけど、一度楽器をかまえたメンバーに待ってもらって、ソプラノサックスのリードを交換するケンさんの手つきはやさしく、ていねいで、
“PLAY TOUR” のセミファイナルの “もりたあと(殺人物語)” は、このツアーでいちばん、たいせつに、ゆっくりとはじまった。
その3日後が、彼女の四十九日だった。
わたしはバラの花をたむけて、この旅の最終目的地、海辺のライブハウスに向かう。
しまが “PLAY TOUR” で演じたのは、世紀の大泥棒「マック・ザ・ナイフ」。
無数の観客のなかで、自分だけのために歌っているように思わせてくれる人。
いくつかの偶然をすべて、運命と信じさせてしまう人。
わたしをそんなふうに勘違いさせるロックンローラーは、この世にひとりしかいない。
真のロックンローラーとは、フアンの心を盗んでしまう『どろぼう』だ。
ロックンローラーの本当の価値を数値化するのなら、何枚のレコードを売ったかではなく、何人の心を盗んだかだと思う。
『どろぼう』を演じるよりずっと前からしまは、すでにわたしの『どろぼう』なのだ。
きっと、これからもずっと。
2018年10月16日
ドレスコーズ 映像作品『どろぼう』発売日前夜に。
the dresscodes TOUR 2018
“dresscodes plays the dresscodes”
2018.06.10.sun 名古屋 CLUB QUATTRO